モンドの気分。

2003年7月11日
▼モンドで有名なヤコペッティの<ヤコペッティの大残酷>って観たことありますか?

▼これはドキュメンタリじゃない<劇>映画で、何か訳の判らない歴史劇みたいで、<フェリーニのローマ>風の主人公がとんでもない数奇な運命を辿る遍歴映画で、私は映画館でこれを見て、大変な面白さに衝撃を受けました。

▼あとで調べたのですが、ボルテールの奇書<キャンディード>を映画化したものだそうです。

▼原題は<モンド・カンディード>。

▼クネゴンダ姫を追うキャンディードが時空を超えて中世、近代、現代の「問題地帯」を行き来するというヤコペッティの総決算であったが、前作同様に大惨敗、だとか。とにかくすげー面白かった。

▼探し求める姫のポップなポスターが街中に貼られていたり、大草原に咲き誇る<ケシの花>の中で、戦闘が行われ、戦火で燃えたケシのケムリで敵も味方もラリったりとかのシーンが忘れられません。しかもわざとらしいスローモーション。

▼ビデオ化もされていないようですが、もう一度観たいだけでなく、私の個人的オールタイム・フェバリッツ・ムービーのベスト3に入る傑作です。

▼ちなみに一位は<若者のすべて>ですね。ヴィスコンティの。全然モンドじゃないけど。

▼ついでにベスト20を並べてみるとこんな感じ。まあ、今の気分にすぎないのですが。後半、ミュージカルが並んでるなあ。そんなに好きだったけ。

01:<若者のすべて> ルキノ・ビスコンティ+アラン・ドロン+ミラノ。

02:<太陽がいっぱい> ルイ・マル+アラン・ドロン+海。

03:<ヤコペッティの大残酷> 前述の遍歴物語。

04:<イレイザー・ヘッド> いうまでもなくデビッド・リンチのデビュー作。

05:<世にも怪奇な物語> 小学校の頃、テレビで観たオムニバス映画。最後のフェリーニのやつが好き。退廃的なテレンス・スタンプを見て、深く静かに惚れました。

06:<気狂いピエロ> いうまでもなくゴダ−ル。でも、最近の気分は<軽蔑>かなあ。

07:<欲望の曖昧な対象> ルイス・ブニュエル。これを観たとき、タモリ倶楽部でやっていた<ミニドラマ>を思いだしました。

08:<時計仕掛けのオレンジ> アントニー・バージェス原作、スタンリー・キューブリック監督。キューブリックは<現金に体を張れ><博士の異常な愛情><2001年宇宙の旅><バリー・リンドン><シャイニング>みんな好きだが。

09:<エレンディラ> ガルシア・マルケス原作。あとは知らない。

10:<ロング・グッドバイ> ロバート・アルトマンによるフィリップ・マーロウ。チェスをやらないで、猫を飼っているマーロウ。原作のイメージとは全然違う。映画のテ−マソングを、マーロウが調査に行く場所毎に、そのロケーションに合ったアレンジで、現地のミュージシャンが<なぜか>演奏しているのがとても面白い。 

11:<九月になれば> イタリアを舞台にしたロック・ハドソンとジーナ・ロロブリジータのラブコメ。

12:<ジャッカルの日> ハットオフ! 

13:<ベティ・ブルー> どろどろ。

13:<我が輩は鴨である> マルクス兄弟の不条理コメディ。

14:<泥棒成金> ヒッチではいちばん好きだなあ。南仏で、ケイリー・グラントで、グレース・ケリー。文句なし。

15:<バンドワゴン> ていうか、フレッド・アステアは全部フェバリッツ。

17:<リリー> ロリコン・ミュージカル。 

18:<雨に唄えば> 幸福なミュージカル。

19:<エルビス・オン・ステージ> まるでゴスペル教会みたいなディナーショー。

20:<エイリアン> SFが好きなので、代表としてこれを。


▼知人のがらんどう氏が身辺雑記に『情死小説としての「こころ」』という文を寄せています。

http://diary.cgiboy.com/d01/garando/index.cgi?y=2003&;m=7#4

▼もちろん、この「こころ」というのは夏目漱石。

▼そのなかで、<「こころ」がホモセクシュアル的な小説として読める>という一節がありました。

▼それで思いだしたのですが、発表当時はホモセクシュアルがテーマであることを曖昧にしたことで、話がかぎりなく迷宮的になり、謎めいていて何やら深い思想がこめられているかのように錯覚されていたのではないか、と思われる作家のひとりにテネシー・ウイリアムズがいます。

▼マーロン・ブランドとビビアン・リー主演で映画化された『欲望という名の電車』や、エリザベス・テーラーが汚役に挑戦した『焼けたトタン屋根の上の猫』などで有名ですよね。

▼しかし、彼の芝居は今では舞台で上演されることも稀なようです。かつては演劇界のスーパースターだったというのに、この落差ときたら。

▼思えば、この作家の凋落ぶりは日本のサッカーでいえばマエゾノ選手に匹敵するのではないでしょうか。

▼ブロードウェイでヒット作を書きつづけている脚本家の中には、デスクの前の壁に<慢心するなかれ。テネシー・ウイリアムズを忘れるな!>という自戒の句を貼っている人もいるとか(嘘です)。

▼まあ。それほど浮き沈みの激しい作家であると言えましょう。

▼そこへ行くとヘンミグウェイの『陽はまた昇る』などは、戦争帰りの主人公が性的不能になって苦しむ、というテーマをやはり<曖昧にしている>という部分は同じなのに、そんなことは気にもならず、何度読んでもそれなりに面白いのは不思議な気がしてしまいます。

▼しかしその秘密は簡単なところにあって、結局、私はこの小説を<観光小説>として読んでいて、主人公の苦悩などにはさほど心動かされたりせず(それというのも曖昧にかかれているのでよく判らないし)、もっぱらパリのカフェーやバーの風俗や、スペインの避暑地の風景や川釣りの話、ツール・ド・フランスや闘牛の興奮などに目を奪われているだけだったというわけなのです。

▼ヘミングウェイを観光小説として<だけ>読む私。なんと野蛮人なのでしょう。

▼しかし、そういえば、ロラン・バルトが書いていたじゃありませんか。

▼<没論理、無節操といった非難を前にしても全く動じないような人物、それがテクストの読者だ>。


▼絢爛たるローマン・カトリックの聖誕祭を鑑賞していると、宗教の基本はやはりスペクタクルなのだ、という単純な事実に思いあたり、あらためてイエス・キリストの受難物語の奇跡の一つ一つの重要性に気付くとともに、彼の死後、それらの奇跡にちなんだイコンを一面にちりばめて、宗教のスペクタクル化に磨きをかけたカトリック教会の見事なプロデュースぶりに驚かされるのだが、それはそれとして、先日、H.I.M.という罰当たりなコントを書いた時に参考にした作品を幾つかここで紹介しておきたい。

▼まずはマーティン・スコセッシの『最後の誘惑』。

▼この映画のなかでウイレム・デフォーが演じるイエス・キリストが、肉欲にも悩まさせる普通の若者として描かれているとかで、衝撃の問題作とか騒がれていたが、さほどのことはなく、結構、聖書研究書の<史実>に基づいて描かれていると思うよ。

▼それよりも問題なのは、スコセッシ独特の屈折した美意識が織りなす徹底した写実的演出と、宗教画から引用した古典的演出の混淆からもたされた不思議な映画的快感の存在である。特に圧巻なのは磔刑の場面で、観る者にキリストの痛みがひりひりと伝わってくるのだが、それは処刑法を歴史的に検証して細部にいたるまで再現したという完全主義にのみ起因するのではなく、古典的な様式美をそなえた宗教画からの引用を導入することで、観る者の時間の感覚を緩慢に狂わせていくという、きわめて実験的な手法からくる感動によるものだ。

▼私はストリー・テリングで味わう感動も好きだが、こうした実験的な手法によってもたらされる不思議な感動にも目がないんだよね。

▼かつて、白金の都ホテルのフレンチ・レストランに、ボリュームたっぷりのテンダーロイン・ステーキの上に、そのステーキと同じ大きさのフォアグラのソテーを載せた料理があって、その料理の掟破りの旨さに下衆な感動を覚えたことがあるのだが、スコセッシがこの映画に仕掛けた罠には、その時以来の手厳しい背負投げを食らわされたよ。

▼次に、ピエル・パオロ・パゾリーニの『奇跡の丘』。

▼いわゆる<聖書映画>といえば、セシル・B・デミルの『十戒』に代表されるように、オールスターキャストを謳うハリウッド大作でありつつも、アメリカ最大の勢力であるキリスト教右派への目配りを忘れない政治的産物であったり、あるいは原典に忠実とは云いながら、必ずしも<聖書>だけに拠るものではなく、ヨセフスの手になる『ユダヤ古代誌』の中で描かれた伝説にすぎない<モーゼのエチオピア遠征>のシーンが最大の呼び物であるスペクタクル映画であったりしたものであるが、スキャンダルな無神論者として知られるパゾリーニは、こうした映画的なギミックを意図的に廃すことで、当時としてはまったく新しいキリスト像を創造することに成功したのだ。

▼たとえば彼は、まったく無名の素人俳優を使うことで既成のキリスト的イメージを破壊し、返す刀で、クリスチャンには耳慣れたはずのエピソードを新たな視点で眺めさせる。

▼そのうえで彼は、保守的なキリスト教団体の推薦を受けるほどに誠実な態度を装い、<マタイ>の福音書を忠実に映画化したのであるが、このあたり誠に食わせ者であって、キリストを<保守的に>解釈する<マタイ>を忠実に映像化すればするほど、キリストが希代の<革命家>であったことを強調する結果になるという、皮肉な離れ業を成し遂げているのである。嘘じゃないってば。

▼次にジャン・リュック・ゴダールの『ゴダールのマリア』。

▼べつに物議をかもした映画ばかり選んでいるのではないのだが、面白い宗教映画を探すと結局こうなる。

▼この映画もまた新解釈による<処女懐胎>で世間を騒がせた。ここでもスコセッシ同様、古今東西の宗教画からのとんでもない引用が次々に出てくるが、この手法はむろんゴダールの方が早い。あたりまえだ。ゴダールより早い映画作家などいない。ただし映画を破壊してまわる逃げ足の早さだがね。

▼ところで、さっき、『最後の誘惑』を観てキリストの痛みに心打たれたと書いたが、そうとも、私はその痛みを乗り越えてH.I.M.というコントを書いたのだ。この機会に言訳しておく。

▼さて、ゴダールもまた、胸の傷みを隠して他人の心を傷つけてしまう不幸な人間であった。盟友フランソワ・トリュフォーとの蜜月と反目。いつしか憎みあうようになったトリュフォーの急死。ゴダールが殺したようなものだと云われた。しかし、誰よりも悲しんだはずのゴダール。きっと、早世するのはトリュフォーではなく自分の権利だと思っていたことだろう。

▼最後に光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』。

▼光瀬龍こそ、石川淳、山田風太郎と並んで現代日本で最高のスタイリストと信じる私だが、この大河哲学思弁SF小説に登場するキリスト像のおぞましさは、その格調ある文章と反比例するかのごとく激烈で、およそ純真なクリスチャンなら怒髪天を衝くこと疑いなしであろう。

▼私が、少々のことなら書いても構わないなどと、大それたことを考えたのも無理はない。なにしろイエス・キリストが実はXXXXで、さらにはXXXXだというのだから、とても恐ろしくてここには書けない。

▼小説版と共に、萩尾望都による漫画版の『百億の昼と千億の夜』を推薦しておく。

▼この禁断の書を映像化しようという勇気と、その完璧な出来ばえには溜息をつくばかりだ。ちなみにこの本、後藤久美子か中谷美紀主演で映画化するってのはどうかね。監督はもちろん『ダーク・エンジェル』のジェイムズ・キャメロンしかおるまい。

▼紙芝居じみたジョークに逃げないという保証つきなら市川昆に撮って欲しいのだが、手塚治虫の『火の鳥』の映画化の出来が酷かったからなあ。パゾリーニみたいな感じで淡々と映像化して欲しかったのに。なんだよ、あの下手なアニメは。結局マンガを馬鹿にしてるんだね、巨匠は。キャメロンの方がよっぽど日本のマンガへの敬意を感じるよ。

夢の中の新刊書店

2003年7月8日
そういえば行きつけの夢本屋のなかに、一軒だけモダンなしつらえの新刊書店がありました。他の本屋はみな薄暗い路地の奥で、裸電球がぶらんとぶら下がっているような店なのですが、そこは明るくて活気があります。よくSFとかアバンギャルドな本を立ち読みします。このあいだ、夢のなかで道に迷って、ひどく猥雑な印象の見知らぬ街の駅ビルに迷いこみ、帰れなくなってしまったのですが、ふと見ると、駅ビルの一角に、その店の支店が出店していました。その店に入ると、馴染みの店主がいました。そしてひとしきり無駄話をして、おもむろに道を聞いて、ようやく帰ることができたのです。あの店主はきっとぼくのために登場してくれたのでしょう。登場するためにわざわざ支店まで出店してくれたのです。なんて義理堅い人物でしょうか。

夢を泳ぐ紙魚

2003年7月7日
はじめてホルヘ・ルイス・ボルヘスという名前を目にしたのは中学一年の冬、学校を休学してぼーっと昼下がりの繁華街で時間をつぶしていたとき、いつものように行く場所もなく、街でいちばん大きな書店に入り、できるだけわけの判らないものを求めて物色していたら、いきなり『不死の人』などという魅惑的な文字が網膜の奥に焦点を結んだのだった。思わず手に取り、その扉を開いた。すると、ぼくの手の中には、<聞いたこともない小説家や思想家の引用がちりばめられた謎の書物>があったのだ。胸がときめいた。この本をどうやって万引きしようかと考えた瞬間、ぼくは屈強な婦人警官の手によって腕を掴まれていた。未遂ですらなかった。万引きではなく平日に繁華街をうろついていたという容疑による補導だった。休学しているのに補導というのも面白い話だ。警察から学校に連絡が入った時、ぼくの担任の教師は一笑に付したという。おとがめなし。なんかぼくの人生、それからずっと、土壇場にだけ強いみたいなんだ。そして、それ以後、表紙に触れただけで心臓がキチキチとビートを刻むような本にはめぐりあっていない。たとえばガルシア・マルケスの『百年の孤独』にしたところで、すでに有名になった後に読むことになったしね。だからだろう。ぼくには夢の中でだけ訪れる古書店がある。その店の書棚には、誰も知らない事について、誰も知らない作家が書いた、誰も知らない書物が、ぼくに読まれる瞬間を静かに待っているのだ。紙魚に喰われながら。
▼今日は午後から散策。ユニクロで買ったサングラスに飽きたので、O井町のイトーヨーカドーの半額セールでポラロイド製の黒いサングラスを買った。

▼例によって阪急ビルのブックオフも覗いてみる。

▼伊藤潤二の「うずまき」の第一巻があったので購入。第二巻がうちの近くのブックオフにあったのを思いだしたのさ。多分売れてないはず。でもこのマンガ、何巻まであるのかな、よく知らないんだけど。

▼いい気分になってきたので、上の階のハードオフにも足を運んだ。

▼すると、ジャンク・コーナーにヤマハのミニ・スピーカーが3500円。フルレンジ一発で正方形の小さいタイプ。ちょっと欲しくなるシロモノだなあ。

▼うちのEDIROLより明らかに口径が大きいから、いい音が出そうなんだけど。

▼しかし、パッシブ・スピーカーだからアンプに繋がなきゃならない。現在使ってるEDIROLはアンプ内蔵だから別にアンプも買わなきゃならなくなる、それじゃ物入りだなあ、と思って横をみたら、聞いた事もないメーカーのアンプ内蔵低音スピーカーが1000円で売ってるじゃないか。

▼スペックが判らないけど、PCに繋いで耳元で聞くんだから気にすることもなかろう、まとめて購入しようか、4500円、さあどうしよう、などと独りでウンウンうなっていること30分、よく考えたら今の音に不満があるでなし、馬鹿な買物はやめるべし、という結論が出ました。

▼それよりモニターが欲しいんだ。

▼写真集のデザインとかをやるのに、どうしても17インチ、できれば19インチのモニターが欲しい。

▼モニターのコーナーを見てみる。すると、ナナオの19インチ・モニターが15000円で売っている。

▼ナナオといえばかつてはモニター界のロールスロイスと言われたものだ。そのナナオが15000円。

▼もちろん古いタイプで平面じゃないんだけど、それにしても画角が広くて卒倒しそうだ。どうしようか。買っちゃおうか。ちょっと待て。帰ってヤフー・オークションを見てから考えよう、どうせ売れないよ、という結論。

▼どうもぼくの結論は常に買わないほうに落ち着くようだね。

▼帰途、去年まではタクシーで帰っていたのだが、最近はいつも電車だ。その電車を途中で降りて、H之台で降りる。

▼駅前のリトル・マーメイドでパンを買ったあと、近くの路地裏の古本屋を覗いてみる。

▼ここは3册100円のコーナーに時々掘り出し物があるんだ。すると、コリン・ウイルソンのハードカバーが4册も置いてある。

▼「殺人者」。「純粋殺人者の世界」。「殺人の哲学」。「殺人百科」。この4册。

▼どれも発行が70年代の古い版だ。これは買いだね。でも200円で買うには2册たりないなあ。

▼ゆっくり棚を眺めていたらハヤカワ文庫でフィリップ・K・ディックの「地図にない町」とレイ・ブラッドベリの「刺青の男」を発見。どちらも大昔に読んだことがあるが、手元にはない本だ。これに決めた。

▼計6冊で200円。いい気分で帰途についた。

▼でも、結局、ぜんぜん読まないンだよね最近。スピーカーやモニターよりよっぽど無駄遣いかもしれないなあ。


しかし、問題はそんなことではなく、両手を背中から掴まれて、そのうえズボンの中に手を突っ込まれた人間に、どれほどの自由が残されているのか!という事だ。


君。何を馬鹿な事を言ってるんだ。問題は、ズボンの中に手を突っ込んでいるのは誰なのか!という事じゃないか。


君たちにはうんざりだ。今さら何を寝ぼけたことを言ってんだか。いいかい、問題は、ズボンの中で何が行われているか!って事さ。君たちには呆れて物が言えないね。


ハイ、ガイズ。そんなことより、私が心配しているのは、このあと、替えのズボンがあるのかどうか? という事なんだけどさあ、ねえ、どう思う?


▼最近のハリウッド、キャサリン・ヘップバーンとスペンサー・トレイシーとか、ドリス・デイとロック・ハドソンとかの都会的なコメディのリメイクみたいな映画が増えてきてますよね。

▼テレビ界も保守化がどんどん進んでいるようです。

▼かつての人気番組だった『ビバヒル』なんかも、最後の方はどんどん黒人やヒスパニックが消えていきましたし、『現在放送中の『ER』からも黒人が消えてしまいました。

▼しかし思い起こしてみると、昔のハリウッド映画で<WASP>を演じていたのはほとんどホワイト・エスニック、つまり本当のWASPなどではなく、ユダヤ系やイタリア系や東欧系の白人だったというのが皮肉な話です。

▼しかしキャサリンやボギーはほんもののWASPだったようで、昨年、アメリカで大掛かりな映画スターの人気投票をやった結果、この二人がトップだったんじゃなかったっけ。ブッシュのアメリカ、今やそうとう内側の方を向いているようです。

▼そういえばブッシュ家そのものが、どWASPですもんね。

▼WASPにしてみりゃ大統領なんて小間使いだそうで、ブッシュ家がそんな汚れ仕事を引き受けているのはボランティアにすぎない。もちろん、それは建前で、本音はWASPの既得権を守るためなのでしょう。

▼一見するとアメリカのショービジネスは黒人やヒスパニックで溢れかえっておりまして、何だか白人のテリトリーが減っているかのように見えますが、これは錯覚じゃないでしょうか。

▼かつてはWASP的ヒエラルキーに入れなかったホワイト・エスニックが準市民としてWASPの会員に入れるようになったために、映画/音楽/スポーツ産業で<現場>に立たなくてもよくなっただけではないでしょうか。

▼ではなぜホワイト・エスニックが準市民としてではあれ、WASPの中に入れたのか。

▼それはやはりユダヤ系を筆頭に、ホワイト・エスニックが金持ちになったからであり、WASPの既得権を守るために仲間に入れた方が有利だからでしょう。

▼Marvin Gayeといえば『WHAT’S GOING ON』、というのが一般的なイメージなのかな。

▼たしかにモータウンという黒人臭がぷんぷんするレコード・レーベルから、これほどまでにソフィティケイティッドされたアルバムが発売されるなんて奇跡のようなものだし、やはりその奇跡はこれ一回きりだった。しかも愛と平和への祈りをテーマとしたトータル・コンセプト・アルバム。いまだにテーマもサウンドも、これっぽっちも古びていない。傑作だ。それは認めよう。

▼しかし、ここでのMarvinは洗練されすぎていて、R&Bのボーカル・スタイルに悪影響を与えたような気がしてならない。こんなことを言うのは僕だけかもしれないけどね。

▼なんかeasyにMarvinもどきのファルセット・ボイスで悦に入っているボーカル・スタイルが80年代あたりから耳につく。

▼黒っぽくないというだけでなく、薄い。

▼薄いファンクが流行りはじめた頃とシンクロしてるから、そうしたサウンド作りとマッチしていたのかもしれないけどね。

▼だから僕はボーイズ・トウ・メンとかも、どこがいいんだかさっぱりわからない。最近のJ-POPのR&Bのボーカル・スタイルもみんなこの流れにあるよね。あんまりぐっとこないね。

▼ぼくが好きなMarvinはもっと若い頃、甘ったるいラブソンングを美女たちとデュエットしてるやつだ。

▼残念ながらオン・タイムでは聞いていないのだが、まるで砂糖菓子、しかもくどいソウル・フードのあとのブラウン・シュガ−製のデザート。これがたまらなく美味なんだ。

▼Marvinとデュエットしたシンガーは美女ぞろい。

▼Diana RossやKim Westonもいいけど、やっぱりMarvinもメロメロだったTammi Terrellに僕もメロメロさ。

▼kimはここ<http://surf.to/kimweston

▼Tammiはここ<http://surf.to/tammiterrell

▼Diana Rossはいいよね。

▼さて、Tammi とのデュエットじゃこの3曲が僕が選んだベスト。

●「Your Precious Love」
●「If I Could Build My Whole World Around You」
●「You Ain´t Livin´ Till You´re Lovin´」

●Diana Rossとなら「You Are Everything 」

●Kim Westonとなら「It Takes Two 」

●ソロだと「Forever」がとろとろに甘くて絶品。

▼だけど、正直にいうと、MarvinのソロはSam Cookeに比べるとちょっとね。物足りない。

▼やっぱデュエットでしょうMarvinは。これが結論。



▼ホルヘ・ルイス・ボルヘスが描く作中人物のように、つまり、まるで『ドン・キホーテ』という書物など無かったかのように、あらためて『ドン・キホーテ』と一字一句違わぬ『ドン・キホーテ』という書物を自ら著そうとするセルバンテス・マニアのように、あるいは、ジャン・リュック・ゴダールによって既に破壊されたはずの『映画』なるものが、まだ存在するかのように振るまう映画人の鼻先で、あらためて『映画』なるものを破壊してみせる<ふりをする>ダニエル・シュミットのように、われわれ日本人は、明治以後の『近代』など無かったかのように振るまい、あらためて『近代』なるものを、いうなれば<ポスト・モダン>ならぬ<メタ・モダン>とでも云うべきものを建設しなければなるまい。

▼それにはまず、<破壊者>が必要だ。

▼まあ、こんないいかげんな事を考えるのは少数派に違いない。

▼それもそのはず、私には崩壊の現場に居合わせたいというひそかな欲望があるのだ。それはもう、云うまでもなく、とんでもない欲望だ。大いなる自己矛盾を含んでいる。押さえつけるのに懸命だ。

▼しかし、いまは少数派とはいえ、<世界崩壊というスペクタル>への渇望というやつが、そろそろ世界中に蔓延しはじめているようにも思えるのだが、気のせいかな、ブッシュ君。

▼世界中の人々が、日々、くらしながらも、

「世界崩壊、そろそろだね」
「そうだね」
「それまでに、これだけは片づけとこうかな」
「じゃあ私、そのとき、何着ようかしら」
「この前、法事に着ていったドレス、あれでいいじゃないか」
「いやだ辛気くさい」

なんて語りはじめたら、あっというまにXデイは訪れかねないよね。

▼だからこそ、崩壊のあとにもだらだら日常は続くんだからさ、そのあとの建設について、明るい展望を語るヴィジョンが必要なのではなかろうか。なんてね。

神様のイメージ

2003年7月1日
▼ぼくが考える神様のイメージ。

▼神様を引退したあと、ニューヨークのセントラル・パークを見下ろすペントハウスで、優雅に独身生活を満喫する初老の紳士。

▼もちろん天使たちがバトラーやセクレタリを勤めている。

▼ごく最近、免役もなくシャバッ気に染まったばっかりなので、うまい食事といい女とショッピングが大好き。天使たちを困らせている。

▼毎週、金曜の夜には、褐色砂岩のビルの地下にある某会員制クラブで、同時期に堕天使を引退したルシファーをゲストに呼んで夕食をとり、昔話に花を咲かせるのだが、ほんとうはニューヨークで最高のクラブへの入会を断られたのでショックを受けている。

▼やはり旧約聖書における発言の数々が査定に引っ掛かったのだろうか、それとも、この躯に染み付いたシオニズムの匂いがまずかったのか、などと気に病んでいる。

▼ほんとうは、ロード・アイランドに邸宅を構えていないことが原因であったことを、彼はまだ知らない。

プリンスのルーツ

2003年6月29日
▼図書館でプリンスのベスト・アルバムとライブ・ビデオを借りてきた。

▼私は特に、全曲を作詞作曲、しかも全曲の楽器を自分で演奏したファースト・アルバムの『I Wanna Be Your Lover』が好きだ、というか、最初にMTVでこの曲のプロモを観た時、ひげ面の変な男がおかまチックにくねくねと体をくねらせながら、<あなたの恋人になりたい、それから、あなたのお姉さんになりたい、それから、あなたのママにもなりたい>なんて歌っているのを見て、おえっと思ったのだが、怖いもの見たさに何度も見ているうちに、いつのまにかプリンスの虜になっていたのだった。

▼そんなふうに、露悪趣味というにふさわしい挑発的なプリンスの身ぶりには、計算され尽したパフォーマンスという姿の裏に、おれは生まれるのが遅すぎたとでも言いたげな、あきらめにも似た<悲しみ>が透けてみえるような気がするのだ。

▼たとえば、派手なアクションとともに、時には真水のように透き通った、時には時間が歪んだような音色を聴かせる彼のギター・プレイを観るといい。1960年代の<ロックスター>ジミ・ヘンドリクスの真摯な姿を思いおこさずにはいられない。

▼あるいはレヴォリューションというバンドを率いていたころのプリンス。洗練された技術と挑発的な身ぶりを演じながらも、そのベースには、泥臭く古典的でファンキーなテイストを据えずにはいられなかったプリンス。あれが1960年代の<キング・オブ・ソウル>ジェームズ・ブラウンへのリスペクトじゃないなんて、誰にも言わせない。

▼ライブばかりではない。

▼スタジオにこもり、たったひとりで織り上げたアルバム『サイン・オブ・タイムス』。自閉症児のひとり芝居とでも呼びたいこのサウンドが、1960年代後期、ソウル、ファンク、ロック、R&Bをごちゃまぜにして、とろけるように危ない音楽を実践していた<アシッド・リズムマシーン>スライ・ストーンのサウンドを連想させるのは決して偶然ではない。プリンスみずから、信仰告白にも似た種明かしを、サインでもするみたく公明正大に、このアルバムのジャケットに残している。そう、スライ・ストーンが1971年に発表した傑作アルバム『暴動』の<裏>ジャケットにそっくりじゃないか!

▼まさしく<時代>を伴侶とし、<ドラッグ&セックス&ロックンロール>とスワッピングを重ね、<ロック>を創造していたと言えるこの3人を、デビュ−前からアイドルにしていたらしいプリンスの嗅覚の鋭さは、いかにも彼らしいものだった。

▼いや、むしろ、プリンスがこの3人をアイドルと宣言することによって、彼らがあらためて再評価されたといっても過言ではなかった。

▼では、なにゆえにプリンスは悲しいのか。

▼それは、この3人のライブ・ビデオを観るだけですぐに分かる。

▼とりわけジミ・ヘンドリクスのライブは、あまりにも圧倒的で、しかも美しい。

▼このビデオを観れば、<ロック>は彼が一瞬にして創造し、すべての可能性を演じ切って死んでいったのだ、という事が露呈してしまう。

▼ジミ・ヘンドリクスを前にしては、ビートルズはただのポップスだし、クラプトンはただのブルースおたくじゃないか、などと暴言を吐きたくなるほどだ。

▼そしてあの頃、プリンスほどの天才が、すでに全てが演じられてしまったステージに立ち、このうえ何を創造すればいいのだと、ひそかに溜息をつき、やがてステージを捨て、ついには名前まで消したのだった。

▼悲しくないほうが不思議ではないか。

バードケージ

2003年6月28日
▼こないだの話。例によってNHK-BSで映画をみた。ロビン・ウイリアムズがゲイのクラブ・オーナー役で、ジーン・ハックマンがお固い保守派議員を演じた「バードケージ」。

▼こんな映画。

▼<ショークラブ「バードケージ」のオーナー、アーマンドと店のトップスター、アルバートは相思相愛の関係だったが、アーマンドの実の息子が結婚することになり、相手上院議院夫婦が会いに来ることに。息子の幸福な結婚のために、ゲイの関係を隠そうとする二人の
奮闘を描くハートフル・コメディ。R・ウィリアムスとブロードウェイの人気スターN・レイン、G・ハックマンらの芸達者たちが爆笑のコメディ演技を披露する。〔製作・監督〕マイク・ニコルズ>


▼これになんとジーン・ハックマンの娘役であのアリー・マクギール役で有名なキャリスタ・フロックハートが出ていたんだけど、なんと18才の役だぜ。当時からカマトトっぽい身の振り方だったんだね、と納得。

▼しかし、この映画、封切時に見ているはずなのだが、まったく気づかなかったなあ。

▼しかし、そりゃあそうだ。これだけ芸達者なおじさん達が水を得た魚状態でここまで弾けて演じてりゃ、若手女優のぼんやりした印象なんて吹き飛んでしまうわな。

▼ひとつ気になるのはやはりエンディングで、万事めでたしで終わるのはいいとして、どうせなら、最後にすべてがマスコミにばれて大騒ぎ、クラブの店内で派手な立ち回りの<パイ投げ>的クライマックス、というシーンが欲しかったような気もするのだ。

▼そして、たとえばジーン・ハックマンは議員を退職、しかもゲイに目覚めて、クラブでショーに出演とかね。ハッピーでしょ。

▼てな具合に、その後のエピソードを「アメリカン・グラフィティー」のラストみたいにコメント形式で観客に報告してくれると愉しかったのに。

▼それというのも、おじさん達の演技があまりに見事で、登場人物のその後の人生が知りたくなるような映画だったんだ。


▼今は昔、70/80年代のポップスを偲ぶ音楽サイトに
<ぜひ聴いてほしい、原曲よりいかしてるカヴァ−曲特集!>てのを投稿したことがある。

▼私が選んだのは以下の11曲。今だとかなり変わるなあ。

▼そのときの選曲。

1:ルイーズ・ゴーフィン/ オール・アイブ・ガット・ドゥ(ビートルズ)

2:ロッド・スチュワート/エンゼル(ジミ・ヘンドリクス)

3:ジミ・ヘンドリクス/オール・アロング・ザ・ウオッチタワー (ボブ・ディラン)

4:ロッド・スチュワート/ピープル・ゲット・レディ(カーティス・メイフィールド)

5:チープ・トリック/冷たくしないで(エルヴィス・プレスリー)

6:ブライアン・フェリー/ジェラス・ガイ(ジョン・レノン)

7:デヴィッド・ボウイ/アクロス・ザ・ユニバース(ビートルズ)

8:サンタナ/ジプシー・ウーマン(カーティス・メイフィールド)

9:シェリル・クロウ/アイ・ウオント・ユー(ボブ・ディラン)

10:マドンナ/アメリカン・パイ(ドン・マクリーン)

番外:山下達郎/エンゼル(クリフ・リチャード)

▼最近だとこんなかんじ。

1:ジミー・スコット/アンチェインド・メロディ(ライチャス・ブラザーズ)

2:デヴィッド・ボウイ/すべての若き野郎ども(セルフカバー*)

3:キャロル・キング/ゴ−・アウエイ・リトル・ボ−イ(セルフカバー*)

4:フランソワーズ・アルディ/ウイル・ユー・ラブ・ミー・トウモロウ(キャロル・キング)

5:ザ・バーズ/マイ・バック・ページ(ボブ・ディラン)

6:ジャパン/オール・トウモロウズ・パーティ(ヴェルヴェット・アンダーグラウンド)

7:ロッド・スチュワート/トゥイスティン・ザ・ナイト・アウエイ(サム・クック)

8:ガンズ・アンド・ローゼズ/Live And Let Die(ポール・マッカートニー&ウィン

9:ヴァネッサ・パラディ/ワイルド・サイドを歩け(ルー・リード)

10:エリック・クラプトン/くよくよするなよ(ボブ・ディラン)

11:ロッド・スチュワート/リーズン・トウ・ビリーブ(ティム・ハーディン)

12:カサンドラ・ウイルソン/ハーベスト・ムーン(ニール・ヤング)

番外:山下達郎/Their Hearts Were Full of Spring(よく知らないひと/ビーチボーイズやフォー・フレッシュメンで有名な曲)

*ふーむ。セルフカバ−が好きなんだよね。人に書いた曲を自分で唄うやつ。ぜひ山下達郎にも近藤真彦の「ハイティーン・ブギ」を自演してレコーディングして欲しいものです。
▼イーグルトンという人のシェイクスピアについての本を読みはじめたら、序文のところでいきなりモンティ・パイソンのことが書いてあったんで驚いた。

▼イーグルトンはむかし『クラリッサ』という本をわざわざ買ったのに、まるで歯が立たなかった記憶があるので、これは図書館で借りてみたのだが、モンティ・パイソンで始まるだけあって実に面白い本だった。くそったれめ。『クラリッサ』と取り替えてくれないかなあ。

▼そんなわけで、したたかな笑いの無差別攻撃をしかけていった彼ら、ほとんどロックスターのノリで過激なギャグをまき散らしていったあいつら、すなわちモンティ・パイソンはやっぱり永遠なのだ!と思ったりしたのだった。

▼<さて、つぎはまったく関係のない話題です>

▼これがモンティ・パイソンの決まり文句。この涼し気というか無節操というか、いーかげんなセリフを免罪符にして、つぎからつぎへと何の脈絡もないブラック・ジョークを連結し、破壊的なショータイムを興行していた英国紳士たち。

▼その名もモンティ・パイソン。コネディの世界ではすでにアンダーグラウンド・クラシックとしての称号を手中にしたはずの彼らであったが、さすがに最近ではその名を聞くことがなくなってきた。あのカルト・ムービー『未来世紀ブラジル』の監督としていきなりメジャーに躍りでたテリー・ギリアムがいたコメディ集団として、再び脚光をあびたことさえ既に遠い過去の話になってしまった。

▼クラシックになるとろくなことがないよね。バッハやベートーベンやワーグナーだって、ホントは若くていきのいい時代に作品を書いているのに、大御所になってからの、爺むさくなってからの肖像しかイメージないもんね。さぞやくやしかろう。

▼閑話休題。

▼確かにモンティたちがイギリスのBBC放送で初めて『空飛ぶモンティ・パイソン』を制作したのが、1969年だってんだから、もう30年以上も前のお話だ。

▼しかし、あらゆる権威を笑い飛ばすあの過激なギャグの連発は今でもちっとも古びてなんかいない。これも彼らが、当時の政治や風俗の安易なパロディに逃げたりしないで、まるっきりオリジナルな、まあ、いくらオリジナルっていってもワケわからなさすぎ、ってのも含めて、とにかくオリジナルなモンティ・ワールドを構築しているからなんだ。

▼(とは言うものの、彼らがビートルズをパロった『ラットルズ』という映画はパロディとしても傑作中の傑作)

▼さて、モンティといえば、<シリー・ウォーク>というギャグが有名で、これは、とにかく、ひたすらヘンテコな身のこなしで街角を歩く、という、ただそれだけのギャグなんだけど、この手の阿呆でかつ濃厚なギャグがしつこくしつこく繰返されるレギュラー・バラエティ・ショーの間に挿入される、テリー・ギリアムのアニメーションも、ナンセンスの丘の上で昼寝しながらふざけちらしている風情で、たとえば『羊のカポネ』という作品では、淡々と<羊のギャングスターの半生>を描いていて、何でまた羊なんだか、おおいに笑いながら、やがてしんみりとしてしまうのだ。

▼いずれにしても、たとえばパーティグッズとして場を盛り上げるにはもってこいのハイセンス・ユーモアから、人前で笑ったら人格を疑われること間違いなしの過激なギャグまで、豊富な品揃えでお待ちもうしあげているのがモンティたちの心意気。

▼でも彼らの<劇薬>は服用を誤りますと、社会復帰が遅れますので、取扱いには御注意。

ベンゲルかく語りき

2003年6月25日
▼サンスポのサイトをのぞいてたら、現・アーセナル監督のベンゲルがジーコ・ジャパンに高い評価を与えてましたね。

▼守備は教えることができるが、創造的な攻撃のセンスというものは教えることができない。つまり、ジーコ・ジャパンは攻撃的で面白いということでしょうか。

▼日本のスポーツ・マスコミは敗北すると全てを否定しはじめるが、それは早計にすぎる、ということも書いていますね。

▼ふむ。フランス戦で0-0に終わるより、1-2で負けても俊輔のゴールが見れるほうに愉悦を感じることができるか。

▼いやあ、なかなか難しい。まだまだ引分のほうが嬉しい年頃かもしれません。

▼しかし、フランス戦で稲本や俊輔を温存して、引分を狙い、コロンビア戦で勝つ。戦略としてはこのほうが妥当なのかもしれませんが、これもまた、日本代表の選手層にそれほどの余裕があるとも思えず、全試合をフル・レギュラーで望もうとしたジーコのほうが現実的だと思ってみたりもするのです。

▼さて、噂に過ぎないとはいえ、つい胸がときめいてしまうのは、現・オランダリーグ所属の小野選手の移籍話です。

▼なんとスペインリーグのバルセロナからの打診があるとかないとか。

▼これが実現して、ついでに去年からの噂の中心である俊輔の移籍話、A・マドリッドへの入団が決まると、スペインリーグの放映権を持つNHKは笑いが止まりませんね。

▼ベッカムと小野と俊輔。

▼もう民放なんて見る暇はなくなってしまいますよね。少なくとも私はそうです。


▼さて、かなり昔の話、『マイノリティ・リポート』を品川のシネコンで観たのだが、いろいろと矛盾した感想を抱いたので、すぐには書けなかったんだよね。

▼スピルバーグとトム・クルーズは自分の領分の中で完璧な仕事をしているが、脚本が例によって、ここ5年ほど隆盛をきわめていたあのシロモノ、つまり、<パソコンソフトにサブジェクトを記述していくだけで、あっというまにお手軽エンタテインメント映画のできあがり>というタイプの不様な出来で、この1年ほど、ようやくこの手の脚本が減ってきて喜んでいた矢先にこれだよ。マックス・フォン・シドーが画面に登場しただけで、すべてのプロットが読めてしまう。しかし、ここまではまだ許してもいい。しかし、その読めたプロットのままに話が進み、さらに、そのまま何のひねりもなくクライマックスを迎えるにいたっては、木戸銭を10%くらいはディスカウントして欲しくなる。

▼だがしかし、この責は脚本家ではなく制作者が負わねばなるまい。いずれにしても、あれだけ大金をかけた映画であるからプレッシャーも並み大抵のものではなかろうし、金を払って観る価値がある映画には仕上がっていることでもあるし、私はなぜか、キンキ・キッズのデビュ−曲のオファーを受けた山下達郎が、まるで筒美京平の手になる歌謡ポップスとしか思えぬ楽曲として『硝子の少年』を世に出してしまった時の驚きを思いだした。私は山下達郎も筒美京平も、ともに大好きなコンポーザーなので、複雑な思いにかられたのだが、世界で一番驚いたのは、ラジオで『硝子の少年』が流れるのを聴いたときの筒美京平ではなかったかと思うと、ちょっと愉しい。

▼さて、『マイノリティ・リポート』についての雑誌記事とかを読むと、やたらにフィルム・ノワールだの、ヒッチコックだのという言葉が踊っているが、いくら客寄せのためとはいえ、酔狂な話だよね。

▼フィルム・ノワールとの比較は論外だろう。何かの冗談としか思えぬ。国会や警視庁の記者クラブじゃあるまいし、映画会社のプレスキットからそのまんま引用するのは、たくらみを見抜いてからにした方が無難だよ。あとで後悔するのは君たちで、スピルバーグじゃないんだからさ。君たちは私のように、消去した、なんて出来ないんだし。

▼なにしろスピルバーグは、いかにもユダヤ的韜晦嗜好の持主で、ほんとうに撮りたい映画を細心の注意を払って隠蔽し、かつ、隠蔽せざるを得なかったという怨念を糧にするかのごとく、その代わりに制作することになったに過ぎない<ほんとうに撮りたかった映画が隠蔽された映画>を、ちゃんと誰もが認める傑作に仕上げてしまうという、さながらボヘミア地方の民話にでてくる悪魔のような男である。だから観る側にも天使のような大胆さが必要なのさ。

▼あれ? 話が逆じゃん。だったら天使のように大胆に、プレスキットをそのまんま書き写しても良いってことだね。失礼しました。

▼さて、スピルバーグの話。たとえば『ピーター・パン』。

▼ほんとうは、スピルバーグは自分の<ママ>を主演にしたピーター・パンが撮りたかったのだ。そして、その欲望を隠蔽するために、ピーター・パンをマイケル・ジャクスンで撮るという企画をたて、それからあらためてその企画を反古にすることで、<ねえママ。あのマイケルでさえ黒人という理由でピーター・パンが演れなかったんだ。ましてやいくら若々しくても、初老の女性がピーター・パンを演じるのは無理ってもんだよ>という巧妙なエクスキューズを手にいれたのさ。かわいそうなのはマイケルだ。生涯の夢だったピーター・パンの大役を永久に失った彼は、あれから完全に壊れてしまった。(I love you, Michel ! so, Me too, I’m just a Crazy Pan !)

▼話をフィルム・ノワールに戻す。

▼ハリウッド製のフィルム・ノワールが観たければ、いますぐレンタル・ビデオ屋に走り込み、ウォシャウスキー(s)の『バウンド』を借りたまえ。あれ以上に出来のいいノワールは、モノクロ時代にまで遡らねばハリウッドではなかなかお目にかかれない。

▼ところで本音をいえば、フィルム・ノワールが観たければ素直にフランス映画を観ればいいだけの話だ。しかし、ウォシャウスキー(s)は本場のフィルム・ノワールを素直に再現することなど、これっぽっちも考えていない。

▼この映画の主人公はコーキーという流れ者である。この流れ者、いかにもフィルム・ノワールのムードたっぷりの、チャーミングな肉体労働者として画面に現れ、やがてギャングの情婦の欲望の対象になるのだが、しかし、このコーキーを演じているのはジーナ・ガーションという<女優>なのだ。

▼そして、この映画は、このコーキーを性的魅力(国立国語嫌究会あらためKKKの要請によりセックスアピールという言葉を自主規制)たっぷりのカメラワークで魅せてくれる。これが素晴らしい。彼女の最初の登場シーンなんて、まるでブラッド・ピットみたいなんだぜ。嘘じゃないってば。

▼「美しい。」と、ひとこと呟いてみたまえ。その言葉にふさわしい映画的な悦楽が『バウンド』の中にはたっぷりとある。ウォシャウスキー(s)は、<男と女の話>を<女と女の話>に摺り替えるだけで、フィルム・ノワールの分脈をなぞっただけの映像が、これほどの官能性を備えた現代劇になりうることを、あっさりと証明してのけたのだ。


▼ミック・ジャガーがヴァン・モリスンの唄い方のまねをした事は有名な話だが、彼がジェリー・ルイスや志村けんのステージ・アクションのまねをした事実は余り知られていない。

▼デヴィッド・ボウイの「スターマン」のコ−ド進行が「オズの魔法使い」の「虹の彼方へ」と同じである事は有名な話だが、彼の「ライフ・オン・マース」がフランク・シナトラで知られる「マイ・ウエイ」によく似ている事実は余り知られていない。

▼世界のオザワの甥っ子のシングルカット曲でウキウキしながら公園を散歩する光景が唄われている楽曲のプロローグがBB.Kingの「エイント・ノーバディ・ホーム」と全く同じである事は余り知られていないが、ここまであからさまに同じだと<リスペクト>と看做されて全然お咎めなしだという事実はよく知られている。

▼最近のエリック・クラプトンがレイ・チャールスのそっくりさんとして唄っている事は有名な話であるが、若い頃のエリック・クラプトンと、デビュ−当時のロッド・スチュワートが、競ってオーティス・ラッシュのものまねをしていたのに私が気付いたのはつい先週の事である。どうりでロッドが<オーティス>に対するリスペクトを表わした曲があって、でもロッドとオーティス・レディングの関系ってピンとこないなあ、と思っていたのだが、これでその疑問が氷解したのであった。

▼五木ヒロシのデビュ−曲である「横浜たそがれ」の歌詞がスペインの詩人ロルカの詩に酷似している事は有名な話だが、この挿話がまるで山口洋子のインテリジェンスを保証するかのごとき美談として語られているのにはマコトに勇気づけられるのであるが、でもホントは、締めきりに終われて、ついやっちゃったんだと思うなあ。

▼タニムラ・シンジの「昂」が著作権切れのシャンソンをボレロのリズムに乗せるという天才的な発想から生まれた名作である事は有名な話だが、ミソラ・ヒバリの「河の流れのように」がその名作に艶歌のクリシェを乗せただけであのような名曲としてもう一度生まれ変わったという事実は余り知られていない。ちなみにミソラ・ヒバリの「港町13番地」はエルビス・プレスリーの「ブルー・ムーン」に匹敵するヒルビリーの名作であると私が信じていることも余り知られていないようである。

無駄をなくそう

2003年6月21日
▼MP3の話。

▼大半が図書館から借りたCDをエンコードしたものばかりで、幾らもコストがかかってないとはいうものの、まったく聴かないような曲が多すぎる。やっぱハードディスクの無駄だよ、ってことで、いきなりMP3を半分ぐらい消去することにした。

▼macでクラッシックや古いジャズは聴かないので、まとめて消去したら、それだけで1/3が消えた。あとは聴きすぎていて、しばらく耳を休めたいようなロック系を、MOに入れてから消去した。これはチープ・トリックとかCCRとかドアーズとかジャニス・ジョプリンとかニール・ヤングとかリトル・フィートとかライ・クーダーとかだ。

▼モダンジャズとフュージョンとR&Bとブリティッシュ・オルタナティヴあたりだけを残すと、ほぼ半分になった。これですっきり。

▼ついでに、今年の春に買ったCanonのデジカメをどうにかしなければなるまい。最近じゃ、ぜんぜん使ってなくて、もちろん持ち歩いたりもしてなくて、埃をかぶりつつあったのだが、これって無駄だよな。

▼だったらもっと、使えばいいのさ。という訳で、photoのコーナーを設けて、デジカメ写真をアップすることにした。少しは撮影する意欲が浮かぶのではなかろうか。これで、またひとつ、無駄が消えた。

▼しかし、写真のアップは時間ばかり食ってめんどうだ。そう思って文字を入力するだけのサイトにしていたのだが。くれぐれも凝り過ぎぬように注意しなければなるまい。

▼たしかロラン・バルトが<写真は無意識を映し出す装置である>みたいな事を書いていたような記憶があるのだが、確かに、撮りためた写真を眺めていると、<へー。こんな絵が撮れていたんだあ>と思ってしまうことが良くあるのだが、これが写真の愉しみの重要な要素である事は確かだ。これを無意識というのかどうかは知らぬが。

▼『奥さまは魔女』が、ついに映画化される運びとなったらしい。

▼予想されるキャスティングは、魔女のサマンサ役にトム・クルーズの元妻ニコール・キッドマン、旦那様のダーリンに『オースティン・パワーズ』のマイク・マイヤーズ。

▼まだ候補の段階だそうだが、オリジナルと比べると、邪悪そうな魔女とドタバタが似合う旦那様の組合せになりそうだね。

▼それにしても日本の某自動車メーカーの広告ではとっくにリメイクされていたわけで、ハリウッドとしてはやや遅きに失したのではなかろうか?

▼いずれにしても、このドラマはアメリカと日本で同時に爆発的なヒットを飛ばした事で良く知られているわけだが、さて、このシリーズの魅力の源泉はと問えば、

「奥さまの名前はサマンサ、旦那様の名前はダーリン。ごく普通の二人は、ごく普通の恋をし、ごく普通の結婚をしました。ただひとつ違っていたのはうんぬん」

と語られる、無責任きわまりないナレーションでも強調された、<普通>というキーワードにあるように思える。

▼何しろ、本国アメリカで放映されたのが1964年から1972年。

▼巷ではラブだのピースだのとカウンター・カルチャーの嵐が吹き荒れ、総ての価値判断が問われようとした激動の時代に、頑固なまでに50年代風のアメリカン・ウェイ・オブ・ライフを遵守して、かたくなに<普通の>アメリカ市民の幸福を披露しつづけた脳天気さにこそ、8年間にもわたるロングランの秘密があったのに違いない。

▼そして、そうしたアメリカの市民生活に憧れたわれわれ日本人にも、どうやらこのドラマの霊験はあらたかだったようだ。

▼たとえば日本における某電通、某博報堂といった広告代理店の全盛ぶりなども、あるいはこの『奥さまは魔女』というドラマが日本人の集合的無意識下に深く影響をおよぼした結果なのかもしれない、などと考えたりして。

▼そうとも。思えば、このドラマに登場する市民たちは、決して一般人などではなかった。広告代理店に勤務するダーリンを中心に、<広告界>をわがもの顔に闊歩するタフな連中であった事を忘れてはならない。

▼ダーリンの誠実そうな微笑の陰には、やたらにスポンサーへの営業を兼ねたホームパーティを開いては、いいかげんな広告プランのプレゼンテーションを繰りひろげるという奸計が潜んでいたのだ。

▼何しろ魔女をたらしこんだほどの実力の持主であるから、広告に関してはシロウトのスポンサーなどはイチコロである。

▼もちろん道化役を買ってでる上司のラリーの存在も無視する事はできない。彼が徹底的にスポンサーに媚びへつらう姿を見ると、ラリーの魑魅魍魎ぶりに思わず感嘆するしかない。

▼まったくの話、彼らに比べたら、魔女たちの方がよっぽど可愛げがあるのだから恐れいる。やっぱり、いたいけな日本の少年少女の心の隅っこに、広告という世界への興味がわいてしまうのも無理はなかったはずだ。

▼いずれにしても、サマンサとダーリンの素敵な郊外生活は脳天気なまでにアメリカしてて、冷戦下の世界情勢を鑑みてみれば、共産主義周辺諸国に対する、じつに見事な自由主義陣営からのプレゼンテーションでもあったはずだ。

▼さて、今、この時期に『奥さまは魔女』を映画化するという事の意味は、あるいはアメリカ合衆国が、どこかとの戦争終結後の世界戦略をふまえて、世界各地のイスラム文化圏周辺諸国へ向けての<愉しい民主主義生活>のプレゼンテーションの一環とでも考えているのでは?

▼なーんて事はなかろうが。いや、もしかして?

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