こころと猫と陽はまた昇る
2003年7月10日▼知人のがらんどう氏が身辺雑記に『情死小説としての「こころ」』という文を寄せています。
●http://diary.cgiboy.com/d01/garando/index.cgi?y=2003&m=7#4
▼もちろん、この「こころ」というのは夏目漱石。
▼そのなかで、<「こころ」がホモセクシュアル的な小説として読める>という一節がありました。
▼それで思いだしたのですが、発表当時はホモセクシュアルがテーマであることを曖昧にしたことで、話がかぎりなく迷宮的になり、謎めいていて何やら深い思想がこめられているかのように錯覚されていたのではないか、と思われる作家のひとりにテネシー・ウイリアムズがいます。
▼マーロン・ブランドとビビアン・リー主演で映画化された『欲望という名の電車』や、エリザベス・テーラーが汚役に挑戦した『焼けたトタン屋根の上の猫』などで有名ですよね。
▼しかし、彼の芝居は今では舞台で上演されることも稀なようです。かつては演劇界のスーパースターだったというのに、この落差ときたら。
▼思えば、この作家の凋落ぶりは日本のサッカーでいえばマエゾノ選手に匹敵するのではないでしょうか。
▼ブロードウェイでヒット作を書きつづけている脚本家の中には、デスクの前の壁に<慢心するなかれ。テネシー・ウイリアムズを忘れるな!>という自戒の句を貼っている人もいるとか(嘘です)。
▼まあ。それほど浮き沈みの激しい作家であると言えましょう。
▼そこへ行くとヘンミグウェイの『陽はまた昇る』などは、戦争帰りの主人公が性的不能になって苦しむ、というテーマをやはり<曖昧にしている>という部分は同じなのに、そんなことは気にもならず、何度読んでもそれなりに面白いのは不思議な気がしてしまいます。
▼しかしその秘密は簡単なところにあって、結局、私はこの小説を<観光小説>として読んでいて、主人公の苦悩などにはさほど心動かされたりせず(それというのも曖昧にかかれているのでよく判らないし)、もっぱらパリのカフェーやバーの風俗や、スペインの避暑地の風景や川釣りの話、ツール・ド・フランスや闘牛の興奮などに目を奪われているだけだったというわけなのです。
▼ヘミングウェイを観光小説として<だけ>読む私。なんと野蛮人なのでしょう。
▼しかし、そういえば、ロラン・バルトが書いていたじゃありませんか。
▼<没論理、無節操といった非難を前にしても全く動じないような人物、それがテクストの読者だ>。
コメント