アン・ユージュアル・サスペクツ(罰当たりな容疑者ども)
2003年7月9日▼絢爛たるローマン・カトリックの聖誕祭を鑑賞していると、宗教の基本はやはりスペクタクルなのだ、という単純な事実に思いあたり、あらためてイエス・キリストの受難物語の奇跡の一つ一つの重要性に気付くとともに、彼の死後、それらの奇跡にちなんだイコンを一面にちりばめて、宗教のスペクタクル化に磨きをかけたカトリック教会の見事なプロデュースぶりに驚かされるのだが、それはそれとして、先日、H.I.M.という罰当たりなコントを書いた時に参考にした作品を幾つかここで紹介しておきたい。
▼まずはマーティン・スコセッシの『最後の誘惑』。
▼この映画のなかでウイレム・デフォーが演じるイエス・キリストが、肉欲にも悩まさせる普通の若者として描かれているとかで、衝撃の問題作とか騒がれていたが、さほどのことはなく、結構、聖書研究書の<史実>に基づいて描かれていると思うよ。
▼それよりも問題なのは、スコセッシ独特の屈折した美意識が織りなす徹底した写実的演出と、宗教画から引用した古典的演出の混淆からもたされた不思議な映画的快感の存在である。特に圧巻なのは磔刑の場面で、観る者にキリストの痛みがひりひりと伝わってくるのだが、それは処刑法を歴史的に検証して細部にいたるまで再現したという完全主義にのみ起因するのではなく、古典的な様式美をそなえた宗教画からの引用を導入することで、観る者の時間の感覚を緩慢に狂わせていくという、きわめて実験的な手法からくる感動によるものだ。
▼私はストリー・テリングで味わう感動も好きだが、こうした実験的な手法によってもたらされる不思議な感動にも目がないんだよね。
▼かつて、白金の都ホテルのフレンチ・レストランに、ボリュームたっぷりのテンダーロイン・ステーキの上に、そのステーキと同じ大きさのフォアグラのソテーを載せた料理があって、その料理の掟破りの旨さに下衆な感動を覚えたことがあるのだが、スコセッシがこの映画に仕掛けた罠には、その時以来の手厳しい背負投げを食らわされたよ。
▼次に、ピエル・パオロ・パゾリーニの『奇跡の丘』。
▼いわゆる<聖書映画>といえば、セシル・B・デミルの『十戒』に代表されるように、オールスターキャストを謳うハリウッド大作でありつつも、アメリカ最大の勢力であるキリスト教右派への目配りを忘れない政治的産物であったり、あるいは原典に忠実とは云いながら、必ずしも<聖書>だけに拠るものではなく、ヨセフスの手になる『ユダヤ古代誌』の中で描かれた伝説にすぎない<モーゼのエチオピア遠征>のシーンが最大の呼び物であるスペクタクル映画であったりしたものであるが、スキャンダルな無神論者として知られるパゾリーニは、こうした映画的なギミックを意図的に廃すことで、当時としてはまったく新しいキリスト像を創造することに成功したのだ。
▼たとえば彼は、まったく無名の素人俳優を使うことで既成のキリスト的イメージを破壊し、返す刀で、クリスチャンには耳慣れたはずのエピソードを新たな視点で眺めさせる。
▼そのうえで彼は、保守的なキリスト教団体の推薦を受けるほどに誠実な態度を装い、<マタイ>の福音書を忠実に映画化したのであるが、このあたり誠に食わせ者であって、キリストを<保守的に>解釈する<マタイ>を忠実に映像化すればするほど、キリストが希代の<革命家>であったことを強調する結果になるという、皮肉な離れ業を成し遂げているのである。嘘じゃないってば。
▼次にジャン・リュック・ゴダールの『ゴダールのマリア』。
▼べつに物議をかもした映画ばかり選んでいるのではないのだが、面白い宗教映画を探すと結局こうなる。
▼この映画もまた新解釈による<処女懐胎>で世間を騒がせた。ここでもスコセッシ同様、古今東西の宗教画からのとんでもない引用が次々に出てくるが、この手法はむろんゴダールの方が早い。あたりまえだ。ゴダールより早い映画作家などいない。ただし映画を破壊してまわる逃げ足の早さだがね。
▼ところで、さっき、『最後の誘惑』を観てキリストの痛みに心打たれたと書いたが、そうとも、私はその痛みを乗り越えてH.I.M.というコントを書いたのだ。この機会に言訳しておく。
▼さて、ゴダールもまた、胸の傷みを隠して他人の心を傷つけてしまう不幸な人間であった。盟友フランソワ・トリュフォーとの蜜月と反目。いつしか憎みあうようになったトリュフォーの急死。ゴダールが殺したようなものだと云われた。しかし、誰よりも悲しんだはずのゴダール。きっと、早世するのはトリュフォーではなく自分の権利だと思っていたことだろう。
▼最後に光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』。
▼光瀬龍こそ、石川淳、山田風太郎と並んで現代日本で最高のスタイリストと信じる私だが、この大河哲学思弁SF小説に登場するキリスト像のおぞましさは、その格調ある文章と反比例するかのごとく激烈で、およそ純真なクリスチャンなら怒髪天を衝くこと疑いなしであろう。
▼私が、少々のことなら書いても構わないなどと、大それたことを考えたのも無理はない。なにしろイエス・キリストが実はXXXXで、さらにはXXXXだというのだから、とても恐ろしくてここには書けない。
▼小説版と共に、萩尾望都による漫画版の『百億の昼と千億の夜』を推薦しておく。
▼この禁断の書を映像化しようという勇気と、その完璧な出来ばえには溜息をつくばかりだ。ちなみにこの本、後藤久美子か中谷美紀主演で映画化するってのはどうかね。監督はもちろん『ダーク・エンジェル』のジェイムズ・キャメロンしかおるまい。
▼紙芝居じみたジョークに逃げないという保証つきなら市川昆に撮って欲しいのだが、手塚治虫の『火の鳥』の映画化の出来が酷かったからなあ。パゾリーニみたいな感じで淡々と映像化して欲しかったのに。なんだよ、あの下手なアニメは。結局マンガを馬鹿にしてるんだね、巨匠は。キャメロンの方がよっぽど日本のマンガへの敬意を感じるよ。
▼まずはマーティン・スコセッシの『最後の誘惑』。
▼この映画のなかでウイレム・デフォーが演じるイエス・キリストが、肉欲にも悩まさせる普通の若者として描かれているとかで、衝撃の問題作とか騒がれていたが、さほどのことはなく、結構、聖書研究書の<史実>に基づいて描かれていると思うよ。
▼それよりも問題なのは、スコセッシ独特の屈折した美意識が織りなす徹底した写実的演出と、宗教画から引用した古典的演出の混淆からもたされた不思議な映画的快感の存在である。特に圧巻なのは磔刑の場面で、観る者にキリストの痛みがひりひりと伝わってくるのだが、それは処刑法を歴史的に検証して細部にいたるまで再現したという完全主義にのみ起因するのではなく、古典的な様式美をそなえた宗教画からの引用を導入することで、観る者の時間の感覚を緩慢に狂わせていくという、きわめて実験的な手法からくる感動によるものだ。
▼私はストリー・テリングで味わう感動も好きだが、こうした実験的な手法によってもたらされる不思議な感動にも目がないんだよね。
▼かつて、白金の都ホテルのフレンチ・レストランに、ボリュームたっぷりのテンダーロイン・ステーキの上に、そのステーキと同じ大きさのフォアグラのソテーを載せた料理があって、その料理の掟破りの旨さに下衆な感動を覚えたことがあるのだが、スコセッシがこの映画に仕掛けた罠には、その時以来の手厳しい背負投げを食らわされたよ。
▼次に、ピエル・パオロ・パゾリーニの『奇跡の丘』。
▼いわゆる<聖書映画>といえば、セシル・B・デミルの『十戒』に代表されるように、オールスターキャストを謳うハリウッド大作でありつつも、アメリカ最大の勢力であるキリスト教右派への目配りを忘れない政治的産物であったり、あるいは原典に忠実とは云いながら、必ずしも<聖書>だけに拠るものではなく、ヨセフスの手になる『ユダヤ古代誌』の中で描かれた伝説にすぎない<モーゼのエチオピア遠征>のシーンが最大の呼び物であるスペクタクル映画であったりしたものであるが、スキャンダルな無神論者として知られるパゾリーニは、こうした映画的なギミックを意図的に廃すことで、当時としてはまったく新しいキリスト像を創造することに成功したのだ。
▼たとえば彼は、まったく無名の素人俳優を使うことで既成のキリスト的イメージを破壊し、返す刀で、クリスチャンには耳慣れたはずのエピソードを新たな視点で眺めさせる。
▼そのうえで彼は、保守的なキリスト教団体の推薦を受けるほどに誠実な態度を装い、<マタイ>の福音書を忠実に映画化したのであるが、このあたり誠に食わせ者であって、キリストを<保守的に>解釈する<マタイ>を忠実に映像化すればするほど、キリストが希代の<革命家>であったことを強調する結果になるという、皮肉な離れ業を成し遂げているのである。嘘じゃないってば。
▼次にジャン・リュック・ゴダールの『ゴダールのマリア』。
▼べつに物議をかもした映画ばかり選んでいるのではないのだが、面白い宗教映画を探すと結局こうなる。
▼この映画もまた新解釈による<処女懐胎>で世間を騒がせた。ここでもスコセッシ同様、古今東西の宗教画からのとんでもない引用が次々に出てくるが、この手法はむろんゴダールの方が早い。あたりまえだ。ゴダールより早い映画作家などいない。ただし映画を破壊してまわる逃げ足の早さだがね。
▼ところで、さっき、『最後の誘惑』を観てキリストの痛みに心打たれたと書いたが、そうとも、私はその痛みを乗り越えてH.I.M.というコントを書いたのだ。この機会に言訳しておく。
▼さて、ゴダールもまた、胸の傷みを隠して他人の心を傷つけてしまう不幸な人間であった。盟友フランソワ・トリュフォーとの蜜月と反目。いつしか憎みあうようになったトリュフォーの急死。ゴダールが殺したようなものだと云われた。しかし、誰よりも悲しんだはずのゴダール。きっと、早世するのはトリュフォーではなく自分の権利だと思っていたことだろう。
▼最後に光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』。
▼光瀬龍こそ、石川淳、山田風太郎と並んで現代日本で最高のスタイリストと信じる私だが、この大河哲学思弁SF小説に登場するキリスト像のおぞましさは、その格調ある文章と反比例するかのごとく激烈で、およそ純真なクリスチャンなら怒髪天を衝くこと疑いなしであろう。
▼私が、少々のことなら書いても構わないなどと、大それたことを考えたのも無理はない。なにしろイエス・キリストが実はXXXXで、さらにはXXXXだというのだから、とても恐ろしくてここには書けない。
▼小説版と共に、萩尾望都による漫画版の『百億の昼と千億の夜』を推薦しておく。
▼この禁断の書を映像化しようという勇気と、その完璧な出来ばえには溜息をつくばかりだ。ちなみにこの本、後藤久美子か中谷美紀主演で映画化するってのはどうかね。監督はもちろん『ダーク・エンジェル』のジェイムズ・キャメロンしかおるまい。
▼紙芝居じみたジョークに逃げないという保証つきなら市川昆に撮って欲しいのだが、手塚治虫の『火の鳥』の映画化の出来が酷かったからなあ。パゾリーニみたいな感じで淡々と映像化して欲しかったのに。なんだよ、あの下手なアニメは。結局マンガを馬鹿にしてるんだね、巨匠は。キャメロンの方がよっぽど日本のマンガへの敬意を感じるよ。
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