▼さて、かなり昔の話、『マイノリティ・リポート』を品川のシネコンで観たのだが、いろいろと矛盾した感想を抱いたので、すぐには書けなかったんだよね。

▼スピルバーグとトム・クルーズは自分の領分の中で完璧な仕事をしているが、脚本が例によって、ここ5年ほど隆盛をきわめていたあのシロモノ、つまり、<パソコンソフトにサブジェクトを記述していくだけで、あっというまにお手軽エンタテインメント映画のできあがり>というタイプの不様な出来で、この1年ほど、ようやくこの手の脚本が減ってきて喜んでいた矢先にこれだよ。マックス・フォン・シドーが画面に登場しただけで、すべてのプロットが読めてしまう。しかし、ここまではまだ許してもいい。しかし、その読めたプロットのままに話が進み、さらに、そのまま何のひねりもなくクライマックスを迎えるにいたっては、木戸銭を10%くらいはディスカウントして欲しくなる。

▼だがしかし、この責は脚本家ではなく制作者が負わねばなるまい。いずれにしても、あれだけ大金をかけた映画であるからプレッシャーも並み大抵のものではなかろうし、金を払って観る価値がある映画には仕上がっていることでもあるし、私はなぜか、キンキ・キッズのデビュ−曲のオファーを受けた山下達郎が、まるで筒美京平の手になる歌謡ポップスとしか思えぬ楽曲として『硝子の少年』を世に出してしまった時の驚きを思いだした。私は山下達郎も筒美京平も、ともに大好きなコンポーザーなので、複雑な思いにかられたのだが、世界で一番驚いたのは、ラジオで『硝子の少年』が流れるのを聴いたときの筒美京平ではなかったかと思うと、ちょっと愉しい。

▼さて、『マイノリティ・リポート』についての雑誌記事とかを読むと、やたらにフィルム・ノワールだの、ヒッチコックだのという言葉が踊っているが、いくら客寄せのためとはいえ、酔狂な話だよね。

▼フィルム・ノワールとの比較は論外だろう。何かの冗談としか思えぬ。国会や警視庁の記者クラブじゃあるまいし、映画会社のプレスキットからそのまんま引用するのは、たくらみを見抜いてからにした方が無難だよ。あとで後悔するのは君たちで、スピルバーグじゃないんだからさ。君たちは私のように、消去した、なんて出来ないんだし。

▼なにしろスピルバーグは、いかにもユダヤ的韜晦嗜好の持主で、ほんとうに撮りたい映画を細心の注意を払って隠蔽し、かつ、隠蔽せざるを得なかったという怨念を糧にするかのごとく、その代わりに制作することになったに過ぎない<ほんとうに撮りたかった映画が隠蔽された映画>を、ちゃんと誰もが認める傑作に仕上げてしまうという、さながらボヘミア地方の民話にでてくる悪魔のような男である。だから観る側にも天使のような大胆さが必要なのさ。

▼あれ? 話が逆じゃん。だったら天使のように大胆に、プレスキットをそのまんま書き写しても良いってことだね。失礼しました。

▼さて、スピルバーグの話。たとえば『ピーター・パン』。

▼ほんとうは、スピルバーグは自分の<ママ>を主演にしたピーター・パンが撮りたかったのだ。そして、その欲望を隠蔽するために、ピーター・パンをマイケル・ジャクスンで撮るという企画をたて、それからあらためてその企画を反古にすることで、<ねえママ。あのマイケルでさえ黒人という理由でピーター・パンが演れなかったんだ。ましてやいくら若々しくても、初老の女性がピーター・パンを演じるのは無理ってもんだよ>という巧妙なエクスキューズを手にいれたのさ。かわいそうなのはマイケルだ。生涯の夢だったピーター・パンの大役を永久に失った彼は、あれから完全に壊れてしまった。(I love you, Michel ! so, Me too, I’m just a Crazy Pan !)

▼話をフィルム・ノワールに戻す。

▼ハリウッド製のフィルム・ノワールが観たければ、いますぐレンタル・ビデオ屋に走り込み、ウォシャウスキー(s)の『バウンド』を借りたまえ。あれ以上に出来のいいノワールは、モノクロ時代にまで遡らねばハリウッドではなかなかお目にかかれない。

▼ところで本音をいえば、フィルム・ノワールが観たければ素直にフランス映画を観ればいいだけの話だ。しかし、ウォシャウスキー(s)は本場のフィルム・ノワールを素直に再現することなど、これっぽっちも考えていない。

▼この映画の主人公はコーキーという流れ者である。この流れ者、いかにもフィルム・ノワールのムードたっぷりの、チャーミングな肉体労働者として画面に現れ、やがてギャングの情婦の欲望の対象になるのだが、しかし、このコーキーを演じているのはジーナ・ガーションという<女優>なのだ。

▼そして、この映画は、このコーキーを性的魅力(国立国語嫌究会あらためKKKの要請によりセックスアピールという言葉を自主規制)たっぷりのカメラワークで魅せてくれる。これが素晴らしい。彼女の最初の登場シーンなんて、まるでブラッド・ピットみたいなんだぜ。嘘じゃないってば。

▼「美しい。」と、ひとこと呟いてみたまえ。その言葉にふさわしい映画的な悦楽が『バウンド』の中にはたっぷりとある。ウォシャウスキー(s)は、<男と女の話>を<女と女の話>に摺り替えるだけで、フィルム・ノワールの分脈をなぞっただけの映像が、これほどの官能性を備えた現代劇になりうることを、あっさりと証明してのけたのだ。


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