▼暑いね。しかも蒸し暑い。そろそろ夏の避暑地を恋い焦がれずにはいられない気分だ。

▼ビーチカフェに朝から入り浸り、数冊のミステリーをポケットにねじこんで、読むでもなく、読まぬでもなく表紙を開いたりして、パイナップルのかけらが浮かんだラム酒を飲みながら、夜半すぎまで酔っ払って過ごしていたいよ。

▼そして、避暑地には、恋や冒険の甘い期待がつきものな訳だけれど、それにはやはり、その期待にふさわしいだけの華麗な舞台装置が必要なはず。

▼たとえばジャズエイジと呼ばれた1920年代には、スノッブであるためには、休暇だからと云って油断は禁物、それなりに一流の場所で、とても上品に暇をもてあます必要があったとか。

▼その場所というのは、パリならリッツ、ロンドンならサヴォイ、リヴィエラならばネグレスコ、そしてやっぱり、トレン・ド・リュクス(豪華列車)だったら、どうしても<ブルートレイン>でなければ意味がなかった。

▼青と銀で飾りつけられた<ブルートレイン>は、カレーからパリを経由し、南仏の避暑地、リヴィエラへ向けて、カンヌ、ニース、モナコと疾走する急行寝台列車。

▼紺碧海岸の光と影に縁どられた、このスノッブな夜行列車が走りはじめたのは1922年のこと。これはまさしくジャズエイジの申し子だった。

▼1928年に書かれたアガサ・クリスティの『青列車の謎』は、この<ブルートレイン>を舞台にしたロマンティックなミステリー。

▼美しい灰色の眼が印象的な主人公キャザリン・グレイは、思いがけない遺産を手にすると、何よりもまず、リヴィエラへのバカンスを計画する。

▼息がつまりそうなセント・メアリ・ミード村をぬけだし、ロンドンのサヴォイに腰を落ち着ける。そしてピカデリ−広場にある旅行代理店トーマス・クック社で<ブルートレイン>のチケットを手に入れるのだが、彼女はここで、ひとりの男と運命的な出会いをする。

▼サヴォイでも見かけた彼の名はデレク。どこか胸騒ぎを誘う不吉な暗い陰に危険なものさえ感じる。彼もまた偶然、リヴィエラへの旅を求めていたのだが、どうやらデリクも、キャザリンの灰色の瞳に惹かれはじめたようだ。

▼こうして同じ<ブルートレイン>に乗りあわせたふたり。

▼しかし、デリクには大富豪の令嬢ルスという妻がいた。そして翌朝、不仲を伝えられていた彼の妻が無惨な死体で発見され、騒然とする車内。

▼偶然にも<ブルートレイン>に乗りあわせ、捜査への協力を要請されたエルキュール・ポアロも、いつしかキャザリンの瞳に魅せられてしまい、嬉しそうに、そっと彼女だけに語りかける。

「この事件は、いわばあなたと私の共作による探偵小説みたいなものですね。どうです、ひとつ、私たちだけで解決してみようではありませんか」

▼どうだいこのセリフ。さすがクリスティ。まるで昨今はやりの<メタ・フィクション>も顔負けの仕掛けじゃないか。

▼こうして、地中海の陽光につつまれた華麗な殺人事件の幕は開き、危険な予感をはらみつつ、キャザリンの少しだけ遅すぎた恋と冒険もまた、ようやく始まろうとしていたのだ。

コメント

お気に入り日記の更新

テーマ別日記一覧

まだテーマがありません

日記内を検索