▼かつて植草甚一氏が折にふれ語っていたように、上質のミステリーを読みおえた時に訪れるカタルシスは癖になる。

▼具体的に云えば、一冊を読みおえるやいなや、立続けに次の本に手を延ばしたくなるのだ。だからミステリーを読みはじめる前には、数冊のすぐれものを用意しておくがいい。

▼とは云っても、今どき骨董屋でもお目にかかれないアームチェア・ディティクティブが渋面を披露しているミステリーは願いさげだね。それから、やたらに男の美学をみせつけたがるプライベート・アイのしたり顔もちょっといただけない。もう古い、とまでは云わないが、いつだって「悪いのは女さ」なんて話で片がついてしまうのが気にいらない。あれではマザコンの小説家がタフガイに感情移入してるだけじゃんか。あとは<時刻表>とか<車雑誌>とかが必需品だったり、『GQ』や『エスクワイア』のテクニカル・タームを機関銃のように駆使してたりするわりには、マネキンみたいな美女しかでてこない<大人の童話>もお断りって気分だ。

▼そんな次第で、ここ数週間、いわゆるミステリー・プロパーという範疇を超えて、ファンタジーやパロディ、あるいは現代文学のメイン・ストリームあたりにまで眼を走らせながら深夜に読みついできたミステリーを、少しだけ紹介してみたい。例によって、図書館で借りたり、ブックオフで買ったものばかりだから、新刊なんぞはありゃしない。だから今日の日記は、すれっからしのミステリー・マニアの方は流し読みした後、すぐに忘れていただくのが小吉。何のこっちゃ。

▼まずはディック・ロクティの『眠れぬ犬』。

▼云うなれば『マルタの鷹』と『ライ麦畑でつかまえて』の幸福な融合。小生意気な美少女に、失踪した愛犬グルーチョ(もちろんマルクス兄弟のフロントマンから命名したもの。ね、小生意気なガキでしょ)の捜索を頼まれた中年探偵が主人公。14才の美少女セレンディビディと、警察あがりの中年探偵レオが繰り広げるユーモラスな捜索の旅路の物語である。事件は二人のビートの効いた会話をちりばめながら急激に進展し、ついに殺人事件まで飛び出す。まるでセルジュ・ゲンスブールと彼の娘シャルロットによる小粋な<ロード・ムービー>でも観てるような面白さに、巻を置くに能わず、ってやつだ。ネオ・ハードボイルドの傑作である。続編もあるので、どんなに彼らを好きになっても大丈夫さ。

▼次にパトリック・ジュースキントの『香水〜ある人殺しの物語』。

▼舞台は18世紀前半のフランス、パリ。この物語の主人公グルヌイユは、生まれながらにして、あらゆる<匂い>を嗅ぎ分ける能力を持ち、世界を<匂い>という価値観だけで生きている男だ。それというのも、彼には何ゆえか生まれつき体臭というものが無く、<匂い>は彼にとって見果てぬ憧れなのだ。そんなグルヌイユは、生まれ落ちた瞬間、母親に殺されかけ、物心つくまでは孤児院ですごし、その後、なめし革職人として酷使されるが、やがて香水の調合で頭角を現す。それから、至高の<匂い>のためなら殺人も辞さぬというグルヌイユの不思議な冒険が、かぎりなく奇妙な語り口で綴られていく。まさしく幻想文学の逸品である。云われてみれば、これって、まるで、『オリバー・ツイスト』の悪魔版じゃん、という批評も確かに腑に落ちる。え、誰が云ったのかって? むろん私に決まってるじゃん。ところで寡作で知られるジュースキントが次に書いた中編は、鴉(鳩だっけ?)が出てくる怪奇物語なのだが、これがまた、ヘッセの『荒野の狼』の主人公がカフカ的世界に彷徨いこんでしまった、とでも云うしかない不思議なお話で、一読の価値あり。でもタイトルがどうしても思いだせないんだよね、失礼しました。

▼次にニコラス・メイヤーの『シャーロック・ホームズ氏の素敵な冒険』。

▼シャーロッキアンなら誰もが知っている、あの希代の犯罪王<モリーアーティ教授>の正体が、実はコカイン中毒で錯乱状態に陥ったホームズによる<妄想の産物>であった、という秀逸な導入部。その中毒の治療のためにウィーンに向かったホ−ムズを待ち受けている精神科医が、なんとあの<ジグムンド・フロイド博士>であった、というシンクロニシティのセンス・オブ・ワンダーを駆使した意外な展開。そして終盤に待ち受ける痛快な<騎士道物語>。ホームズ物のパロディという範疇を越えたエンタテインメントの傑作である。これで、当時のロンドンに下宿していたはずの、われらが<夏目漱石>を登場させてくれれば云う事なしであったが、いくらなんでもそれは、無いものねだりもここに極まれり、ってやつだな。

▼最後にジャナサン・キャロルの『死者の書』。

▼映画スターだった亡き父を重荷に感じているトーマスは、フランスという童話作家に心酔し、恋人サクソニーとともに、生前のフランスが暮していた田舎町を訪れる。そして、やはり偉大すぎる父を持つがゆえの心の傷を持つフランスの娘アンナと恋に陥るが、彼女から公式の伝記作家のお墨付きをもらった喜びもつかのま、この町に秘められた驚くべき秘密に<うちのめされる>事になる。青春小説のような風味と悪夢的な結末が読者の心を打つ、ファンタジー小説の傑作である。ジャナサン・キャロルの作品は『死者の書』以降の作品も含めた全てに、人間が<うちのめされる>姿が痛切に描かれており、読者は己の胸をかき乱されずにはいられないだろう。さて、では<うちのめされる>とはどういう事か、それを知りたければ彼の本を読み、そして悪夢にうなされるがいい。

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