▼『ブルー・ベルベット』のイザベラ・ロッセリーニ。

▼『ダメージ』のジュリエット・ビノシェ。

▼このふたりの女優の話をしてみたい。なぜなら、このふたりは、きわめつけに対照的な女優として私のまえに現れたからだ。

▼イザベラ・ロッセリーニといえば、イタリアの名監督ロベルト・ロッセリーニを父に、北欧の名花にしてハリウッドの名優イングリッド・バーグマンを母に、そしてハリウッドきっての美形ごのみの映画監督デビッド・リンチを愛人に持っていたわけで、とんでもなく<純粋培養>の女優であると云えよう。

▼いわば、<観られること>を、宿命づけられている存在なのだ。

▼たとえばラテンの血が流れる豊満な肉体は、オリーブのヴァージンオイルをたっぷりと使って味付けされたシチリア料理のように濃厚で、母親とうり二つの美貌に嵌めこまれた青い瞳は、さながらスカンジナビアの凍河に封じ込められた氷晶のきらめきにも似て、儚げに虚空をみつめている。女優という職業を選ばずとも、いわば存在論的にも、女優のように<観られる>ことを免れる術はなかっただろう。

▼実際、彼女はすなおに映画の道を歩もうとしてはしなかったのだが、結果として、『ブルー・ベルベット』の逆説的なヒロイン、クラブ歌手ドロシー・バレンズへと辿りつくことになった。

▼この映画でイザベラが演じるドロシーの肉体は、視線の恵みを浴びすぎたのか、熟れた果実めいた腐敗臭を漂わせており、その危うい瞳は、カイル・マクラクランに突きつけたナイフのように、彼女を見つめる全ての視線と刺し違えようとして身構えている。

▼しかし、そのドロシーの心は、ひたすら彼女を見つめるだけの男であるデニス・ホッパーに隷属しているのだ。ごめんねカイル君。

▼そして、ジュリエット・ビノシェ。

▼彼女は、たとえばイザベラ・ロッセリーニのように<観られること>を運命づけられた女優とは対照的に…。

▼いや、やめておこう。彼女については、<わからない>と素直に告白しておくべきだろう。

▼あえていえば、この『ダメージ』という映画のなかで、彼女の棲む迷宮にまよいこんだジェレミー・アイアンズが、彼女の魅力ゆえに破滅へといたり、しかし、かろうじて死だけは免れ、住みなれたロンドンを捨て、あのウィリアム・バロウズが極刑を逃れるために訪れたタンジールへと流れつき、ひとりごちた言葉が総てを語っているにちがいない。

▼「けれど、彼女は、普通の女だった」。

▼『汚れた血』では『勝手にしやがれ』のジーン・セバーグ、この作品では『ルル』のルイズ・ブルックスの引用として現れる彼女なのだが、その<普通さ>ゆえに、彼女の存在感はオリジナルの女優たちが放つ強烈なイメージに吹き消されかねないほどに、希薄だ。

▼けれど、ただそれだけの女優だとしたら、彼女がおこす衣擦れの音にさえ胸をかきむしられるような、あの不思議な求心力はどこからくるのか。

▼思えば、彼女は<語られる女>だ。

▼それも、なぜか彼女に魅かれる男たちが、その理由となるはずの答を懸命に模索し、そして、その理由を語らずにはいられなくなる女だ。

▼そして、愛するのに理由がいる女は、男にとっては謎なのだ。だから彼女を前にして、男は尋ねずにはいられない。

▼「君は誰だ? なぜ私の前に現れた?」

▼なるほど。彼女は永遠の謎によって男の視線を誘いこむ、あの<スフィンクス>だったのだ。

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