女優という人生について

 
▼この数日、家に帰ったらひたすら寝ているだけだったので、日記らしきことを書けずにいたのだが、昨夜は久しぶりにビデオを観たのでその話。

▼なにやら度し難く憂鬱な日々なので、こんな時には明るいものには触れない方が良い、ってことは経験から知っている。だからとびっきり暗い映画を選んで観ることにした。

▼『愛の嵐』である。

▼かつて私は、恋愛事件のもつれから激昂し、アパ−ト中の本やビデオやCD、つまり本棚に納まっていたもの総てを5階のベランダから外の闇へ放り捨てたことがあるのだが、このビデオはそうした洪水の惨禍を免れてここまで生き延びてきた強者だ。

▼この暗い映画のどこが好きかって?

▼暗いとこだな、やっぱし。あと、シャーロット・ランプリングのコスチューム。

▼『愛の嵐』はこんな映画だ。

▼ナチズムをめぐる言説はよく聞くけれど、ヒューマニズムに裏打ちされたファシズム批判のプロパガンダに終始するものがほとんどで、この映画のように、ナチズムの美学に骨の髄まで溶かされた男女を描いている作品など少数派に違いない。

▼しかし、ナチズムのもつ狂気というか、人が人に施す行為についての、想像力の限界値に近い、試行錯誤の結果としてあらわれた極限状況ほど、倒錯的な世界を描くのにふさわしい舞台はない、というのも、惨たらしい事実なのだ。

▼たとえばこんな情景がある。

▼煙草の紫煙がたちこめる捕虜収容所の一室で、ナチの将校達にかこまれて、肘まである革の手袋、ハーケンクロイツの軍帽、サスペンダーで吊るしただぶだぶのボトムスだけを身にまとった半裸の少女が、物憂い歌とダンスを披露している。骨格が透けてみえる薄い皮膚が悲しいほどに美しい。

▼シャーロット・ランプリングという女優は、このようにして銀幕に登場した。

▼ユダヤの捕虜として選別されたのち、美貌を気にいられて将校用の娯楽の供物とされて、その代価に捕虜としては特権的な地位を手に入れた少女という役柄だ。

▼どっちに転んでも、いずれは死によってのみ解放されるはずの閉鎖的な空間の中で、家畜へでも向けられたような冷たい視線、劇場と化した小部屋で暗い欲望と共に突き刺さる視線、さらには、同胞からの嫉妬と羨望と侮蔑に縁取られた視線などが、彼女のからだに、まとわりついて離れない。しかし、それらの交錯する視線、つまり、彼女を観たいという欲望だけが、少女の生命を支えているのだ。

▼こうして生き延びた戦渦のはて、ようやく平凡な市民生活を手に入れた彼女だったが、あるホテルに宿泊したさい、そこの夜勤に身をやつしていた元ナチ将校の視線に曝される。その運命の瞬間から、かつてのように視線を求めあうだけの倒錯的な物語がはじまりを告げる。

▼これこそは、ただしく、<女優という人生>についての鮮やかなメタファーに他ならないだろう。やはりシャーロット・ランプリングは、この映画で記憶されるべき女優なのだ。


▼そうそう。監督はリリアーナ・カバーニ。共演はダーク・ボガート。この役者がまた実にすばらしいのだが、この映画はシャーロットのものだ。

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